なぜか最近、読書感想文が書きたくて、衝動に任せて書いております。 仕事忙しそうなのに、いつ読む暇あるの? とよく聞かれますが、寝る前に毎日2時間程度読んでいます。
東野圭吾『人魚の眠る家』 娘がプールで溺れたと突然の悲報。 病院で言い渡されたのは「おそらく脳死」。 一旦は受け入れた夫婦であったが、医師も驚く特別な方法で娘との生活を続けることを決意する。 脳死状態の娘が目覚めることを祈り続ける母親の葛藤の日々と、徐々に変化していく周囲の反応。 狂気に満ちた娘の命への執念と愛の物語。
まず、「おそらく脳死」と言う部分に関して、世界と日本では脳死の判断の仕方が違うことを初めて知りました。
世界では、脳死は人の死として判断されるのに対して、日本では、臓器を提供する意思がある場合に限って脳死と判断されるそうです。 今回の物語の場合、おそらく脳死の状態にあるのは小学生の女の子。 つまり、本人に臓器を提供する意思があるかどうかがわからず、両親が決めることになります。 私は、保険証の裏に臓器提供の意思表示を記していますが、生前に本人が意思を示しておくこと(残しておくこと)はとても大切なことだと改めて感じました。
そこから、本人の意思が分からない場合の自分の対応の仕方、について深く考えました。
死に限らず、相手が何を考えてるのかと言うのはこちらには分からないものです。
どうにかして分かろうとするのですが、本当のところは分からないです。
相手のことが知りたい、本当はどう思ってるのかが知りたい、そう思うのはとても自然なことで、人はよく真実が知りたい、と言う言葉を口にします。
しかし、真実とは自分の中にしかないと私は考えます。
例えば、友達付き合いの中でも、何年も一緒にいるのに、え、あの人そんなこと言ってたの?とか、意外な情報が突然耳に入ってくることがあります。
知らなかったの?
知らなかった。
何年も友達だったのに、第三者から知らなかったことを聞くととてもショックです。 なんで教えてくれなかったんだろう、なんで秘密にしてたんだろう、から始まって、 自分には嘘をついてたのではないか、友達だと思ってなかったのではないか・・・ と、どんどんと悪い方向に考えてしまいがちです。 SNSが普及する昨今、情報を求めて探り回ることも可能です。
でも、それ意味ないです。
繰り返しますが、真実は自分の中にしかないと私は考えます。 知らなかったことでショックを受けることはあるけれど、それは知っていても知らなくても友達である事実に影響はしないと考えると少し楽になります。
友達と自分で交わした会話、一緒にいた時の行動。 もしそれが、他の人に言ってることと違ったとしても、自分といる時とは違う面があったとしても、その友達が自分に見せていたもの全てが自分にとっての真実です。 それは言い換えると信用になります。 人を信じること。
少しだけ物語に触れますが、おそらく脳死の状態にある娘を前にして、母親はいくつかの選択を迫られます。 しかしその度に、この子だったらきっとこうするだろう、と考えてから判断します。 これが、人を信じると言うことだと思います。
繋がりが深ければ深いほど、心が通じ合っていればこそ、第三者から何を言われても気にしません。 ・・・と、実は言い切れない、私も弱い人間ではありますが、疑念を抱くと言う感情も自然なことだと受け入れて、それでも、それ以上に、人を信じたいと思います。 今回の物語のように、相手が意思表示出来ない場合は特に、こちらが信じないと何も始まらないと思います。 周りに振り回されない強い意思を持って生きていきたいと思いました。
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